二時間目は、「誓願」の素晴らしさと、仏様の救いは「法則」であるという話です。
潜在意識、阿頼耶識の「法則」は、自然の「法則」とイコールです。
自然の法則に従い、木や草が育つように、願望も自然に達成されますよ!
一時間目の内容だけで判断すると、仏様の道に気付けない仏教で言う悪人が愛されるのなら、スピリチュアルや引き寄せ系の思想に詳しい「自分で何とか出来る人(仏教で言う善人)は仏様に愛されないの?」といった疑問が湧いてきます。
この疑問について親鸞上人は、「善人が救われるのであれば、悪人こそが救われる」と言われ、また「悪人が救われるのであるから、善人こそ救われる」と仰られています。
正直、「善人が先か悪人が先か?」となりますよね。
これは、スピリチュアルや引き寄せ系に限らず自分の意思で何とかして生きれる故に、「仏様が届けられる絶対幸福と慈愛に気付けない人」なので、そのような人たちも、「悪人正機の枠組みに入る」ということなんです。
なので「誰であれ、漏らすこと無く救う」ということになるんですよね。(・∀・)
「誓願」
この二文字に込められた、親心に包まれて救われたいですよね。(・∀・)
そこで必要になるのが、以前も書かせていただいたのですが「他力本願」という生き方になります。
「他力本願」は、誰か他人の力を頼って問題を解決する、「誰かを利用するズルい意味」で受け取られるのですが、本来はそうではなく、問題を抱えている「ありのままの私たち」のまま、仏様のお姿と誓願、そして絶対的な救いの力を思い浮かべながら「身と心」を委ねてみると、安心感が湧いてきます。(・∀・)
ここで、「南無阿弥陀仏(阿弥陀様に帰依して身と心を委ねる意味)」と念仏を唱えると、更に安心感が広がります。
一時間目に、阿弥陀如来様が「全ての人を漏らさず救う」と誓願されて、仏様になられたと書かせていただいたのですが、その話を少し掘り下げてみると、このようなお言葉に出会うことが出来ます。
「南無阿弥陀仏と、私の名を少なくとも10回唱えた人が救われないのであれば、私は仏になりません。ただし五逆を犯した者は除きます」
仏様に全てを委ねるという意味だと感じながら、「南無阿弥陀仏」と唱えてみると、唱えようとする瞬間、そして唱えた後に安心感と喜びが湧いてきます。
親鸞上人は、「この瞬間が救われている証である」と説かれたのですが、10回もこの気持ちに包まれることが出来れば、全ての問題が最善の形で解決され、救われることが、今現在ここで起きていることを体感できますよね。(・∀・)
潜在意識、阿頼耶識の法則も、(何も疑わずに)叶えられた世界のイメージを思い浮かべる瞬間と、思い浮かべた後に叶えられた喜びに包まれた後に、安心感が広がるのですが、阿弥陀如来様が、阿頼耶識(潜在意識)である故の状態だと考えられます。
復縁、片思い、収入、就活、受験などなど、潜在意識、阿頼耶識で叶えられたい願望は様々だと拝察しますが、その全ての願いと、願いにまつわる悩みや不安、そして過程であったり、達成後の世界も、幸せにすると決定されているのが、潜在意識の法則なんですよね。
潜在意識(阿頼耶識)は、この世界の全ての自称を作り上げる法則であり、阿頼耶識は阿弥陀如来様であるとされています。
その阿弥陀如来様が、「決して誰一人として、見放さず、漏らさず、必ず救う」と誓願されているので、潜在意識、阿頼耶識も同じように「皆さんを幸せにする」と決意してるとなるんですよね。(・∀・)
ここで、「五逆」について書かせていただければ幸いです。
幸せの枠組みから外されるとされる、「五逆」について気になった方もいらっしゃるかもしれません。
この五逆は何かと申しますと。
・殺母 → 母親を害する
・殺父 → 父親を害する
・殺阿羅漢 → 何かしらの思想や信仰を持って頑張る人を傷つける
・出仏身血 → 仏様の道に生きる人を傷つける
・破和合僧 → 私たちと同じく願望達成や幸せのために頑張る人の生き方や考え方の邪魔をする
簡単に書かせていただきますと
・「幸せを掴める自分自身があるのは、今の生命あってこそ。なので生命を与えてくれた親は、それがどのような親であっても害してはいけませんよ」
・「自分勝手に生きて他人を傷つけず、他人の意見に惑わされずに、また他人の生き方に介入せずに、仏様の道を歩みましょう」
潜在意識、阿頼耶識を活用される方であれば、このように受け止めていただけましたら幸いです。
さて、仏様の救いは「法則」と書かせていただいたのですが、潜在意識、阿頼耶識の力も「法則」と書かれますよね。
これって、どういうことなんでしょうか?(・∀・;)
「自然法爾(じねんほうに)の事」
親鸞上人が晩年に残されたお手紙に書かれているのですが、この言葉の意味を日々に行き方や、潜在意識、阿頼耶識の活用に重ねると、どのように願望が達成されるのか見えてきます。
自然法爾の事(意訳)
「自然の力は法則の上に成り立っており、人の力ではどうすることも出来ません。
法爾とは、阿弥陀如来様の力の作用であります。
自然は阿弥陀如来様(阿頼耶識)により事象化されるので、自然の法則とは、阿弥陀如来様のお力です。
これを自然法爾と言いまして、阿弥陀如来様の誓願(本願)に帰依することで、自然が起こす結果として、誰もが幸せになれます。
なので、仏様の沙汰(過程)を、あれこれ疑って詮索することは、仏様と自分の足を引っ張るだけで悲しいことです。
阿弥陀如来様の沙汰は自然の法則として現象化されるので、難題の存在や自力の解決も、無力で小賢しいことでしかありません。
詮索せず、帰依する(包まれる)ことで、幸せは『自然の法則として成就します』
仏様の沙汰は、なんと不思議な事でしょうか」
親鸞八十六歳
潜在意識、阿頼耶識を活用する私たちの視点で読み解くと
復縁の願いであれば、願いを取り巻く環境や、不可能と思えてしまう問題と直面すると、素直に願望が達成された世界を思い浮かべることが出来なくなります。
問題を意識しなくても、「今どのような過程を進み、これからどうなるのか」という「過程」が気になり始めます。
願望達成を不可能に見せてしまう難しい問題の存在も、それを解決しようとする自力も、「無力」とされているんですよね。(・∀・)
私たちが、過程を気にして自力で解決しようとすることが、潜在意識、阿頼耶識の法則の前では意味がないことは、分かっているのですが
不可能と思わせる問題の存在すら、「小賢しいだけの無力な存在」とされていることが驚きですよね。(・∀・)
例えば、宿題を忘れた小学生が「やったけど、家に忘れてきた」と言い訳しても、先生は「やってないんだな」と気付きます。
そして、決められたままに授業は進んで、言い訳だけが虚しく残ります。
児童が何をやったとしても、一年間の授業は決められた通りに進行して修了し、児童たちは次の学年に進むのですが、これも、潜在意識、阿頼耶識の法則や、仏様の御沙汰と同じなのではないかと考えております。
児童が何を行ったとしても、時が来れば授業は終わるという結果が待っています。
先生は児童の成長を願い、「分からないところがあれば、いつでも聞きなさい」と言われますが、先生の願いを汲み取らないと何も変わりません。
「算数が分からないから、みんなと一緒にもう一度この学年でやりなおしたい!」と、あれこれ頑張っても無理なんですよね。
ただ、次の学年に進んでから、「先生、教えてください」とお願いすれば、先生は親身になって指導してくれます。
仮に卒業を迎えて、進学なり就職したとしても、恩師に連絡して礼儀正しくお願いすれば、やはり先生は効果的な学習法などを指導してくれるんですよね。(・∀・)
勉強を始めるのに、遅すぎることは無いと言われますが、同じように、潜在意識、阿頼耶識を先生とするならば、願望達成に「遅すぎるということは無い」ということが分かります。(・∀・)
先生が児童の成長を願われた「誓願」
潜在意識、阿頼耶識(阿弥陀如来様)が、皆さんの願望達成と幸せを「絶対に達成する」と誓われた「誓願」
他の誰でもない、皆さんに向けられている「誓い」なので、「私は関係ない」と無視せずに、その手を取って包まれ瞑想で、仏様の中に溶け込まれてみてくださいね。(・∀・)
そして包まれたまま、いつものイメージ法に移ると、何も怖くないし、何が起きても不思議と護られますよ!
そうなれば、願望達成が「当然」起きていることだと実感していただけると考えております。
すると、本当に不思議なのですが、願いが叶えられてしまいます!(・∀・)
今回のテーマは、皆さんに向けられた「誓願」だったのですが
他人事だと思わずに、しっかり受け取りたいですよね!
何卒、よろしくお願いいたします!
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