本日は、救われない気持ちを、どう消化していくかという話を、皆さんと考えていければと思います。
歎異抄という書物をご存知な方は、多いと思います。
親鸞聖人が伝えられた言葉を、まとめられた書物で
今の時代でも、その言葉は深く優しく私達に救いを与えてくださります。
では、早速ですが、歎異抄の世界に旅に出てみましょう。
まず、親鸞聖人が歎異抄で何度も説かれている柱になる教えは
阿弥陀如来は、「人々を救いたい、救うんだ」という願いを持って、我々を見てられて
「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀様からいただいた念仏を唱えることで、我々は皆等しく平等に救われるといった教えになっております。
心が苦しい時は、阿弥陀様が救って下さるという喜びに浸って、念仏を唱えていただければと思います。
ただただ、願いなどと離れて、単純に「阿弥陀様が私を救って下さるんだ」という喜びに浸って、念仏を唱えていただければと思います。
あなたを救いたいという阿弥陀様の本願により心の中の厚い雲が綺麗に散っていくのを実感してくださいね。(・∀・)
「でも、たくさん本を読んで、知識がある人が優先的に助けられるんでしょ?どうせ私なんか・・・」と、思われる方も多いと思うですが。
そこで、かの有名な悪人正機説の話が出てきます。
歎異抄と言えば、悪人正機説が有名なのですが
「悪人」と聞くと、我々の価値観での、善悪という基準に当てはめて考えてしまい
「悪人=悪いことばかり行なっている人」という印象を受けてしまいますが、そうではなく
・真面目に、仏様の教えを学び、仏様と同じ悟りの境地に行きたいと思っている方を「善人」といい
・仏の教えに無知であり、煩悩から逃げる事ができない人のことを「悪人」と言います。
私達が思っている善悪論とは、全く違っていますよね(・∀・;)
例えば、仏や最近流行のスピ関係の道理を詳しく知る人と
そういった事には無知で、何も知らずに苦しんでいる方。
あなたが阿弥陀様なら、どちらを救いたいと思いますか?
もっと突き詰めて言うと、二人の人が川に放り出されているとします。
一人は泳ぎの達人で自分で泳いで、自力で助かることができる人。
もう一人は、泳ぐことが出来ず、ただ苦しみ溺れるのを待つばかりの人。
どちらを先に助けるか?と問われれば、「後者を助けたい」心のある存在なら誰でも、そう思うはずです。
阿弥陀様の視点では、先程の善人でも悪人でも、等しく可愛くて仕方がない存在であり
愛おしくて仕方がないんです。
片方が悟っていたり聡明だからといって、出来の良い方だけが愛おしいなんて思われません。
でも、同じく可愛い我が子のような存在の二人が苦しんでいるなら
弱ってしまっている無知な我が子の方を、先に助けますよね?
こういった、慈悲の心が歎異抄に記されている悪人正機説なんです。
「私は本を読んでないから」「その道(スピ)の凄い人間じゃないから」
といって、どうしても「自分が救われる順番は後なんだ」と思ってしまいがちなのですが
真実は全く正反対で、詳しくなく今現在辛いからこそ、誰よりも救われる資格があるんです。(・∀・)
なので、辛い時や苦しい時は、知識集めの走るのではなく
ただただ、「南無阿弥陀仏」と唱え、何よりも大きな力によって救われている自分自身に浸り、喜びを感じていただければと思います。
繰り返しになりますが、その道の先達、つまり善人だから優先的に救われるという事はないので
安心して大きな力に救われていただければと思います。
ただただ、阿弥陀様にいただいた念仏を唱え救われてください。
これが歎異抄に書かれた、救いの真実なんです。(・∀・)
どうでしたか?凄いでしょ?善悪関係なく、みんな救われるんです!
苦しい時や辛い時は、是非とも親鸞聖人と歎異抄の事を思い浮かべていただければと、切に思う次第です。
ここから、個人的な余談です。
私たちは、欲とは無縁でいられないし
欲無しでは生きていくことが出来ない煩悩を持った凡夫です。
しかし、そういった凡夫を救うことこと
先程も申した通り、阿弥陀様が心から願われていることであります。
スピの世界に限らず、この世界の色んな場面で、持論を争わせる不毛なことも多いのですが
歎異抄の救いの教えの前では、そういった物も無意味に感じます。
自分にとって都合のいい教えが善ではないし、都合の悪い教えが悪でもなければ
誰かに比べ誰も偉くないし、誰かに比べ誰も劣ってはいない
誰の言葉でもない、大きな救いの力に浸り喜び、皆さまが救われる
このことは、私の人生の宝物であります。
どうか、この宝物を皆様と喜びを持って共有できますように。
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